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由来と歴史

令和七年 乙巳年(きのとみどし) 猿島阪東観音開帳
御開帳期間:令和7年3月17日~4月17日

【はじめに】
令和7年3月17日から4月17日までの一ヶ月間、茨城県猿島地域の寺院で12年に1度の「猿島阪東観音開帳」が行われます。この観音開帳では、普段は扉が閉じられているお堂を巳(み)年のこの期間だけ一斉に開帳し、多くの方に観音様にお参りいただいています。
一番札所は関宿城のお膝元に設けられ、続く札所は野田市の他、境町、古河市(旧三和町)、坂東市にまたがります。番外札所などを含めますと計38カ所あり、各札所ではこの期間に合わせ趣向を凝らしてご開帳を盛り上げます。また、一部の札所寺院では中回向として稚児行列や法楽太鼓などをして法要を営みます。
  今回の御開帳は雄弁上人が最初に御開帳をしてから、ちょうど300年目にあたります。期間中、多くの方にお参りいただき観音様とご縁を結んでいただきたいと思います。

【観音様について】
 観音様は観世音菩薩とも言い、深い慈悲に満ちた仏様です。私たちの周囲には、聖観音、如意輪観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音などたくさんの観音様がまつられています。観音様は人々の多様な願いに応じて三十三の姿に変化されます。場所に応じ、時に応じ、求めに応じて、さまざまな形、姿で私たちの前に現れる大変優しい心をお持ちになる仏様です。
これは多くの霊場の三十三ヵ所という札所の数の由来にもなっています。

【観音霊場のはじまり】
 養老2年(718)のある日、今の奈良県、大和長谷寺の徳道上人が病のために仮死状態になりました。冥土の入り口で閻魔大王に招かれ、世の中の悩み苦しむ人たちを救うため三十三ヵ所の観音霊場をつくり皆に巡礼をすすめなさいと、宝印とともに上人はこの世に返されました。そして設けられたのが日本で初めて観音霊場、西国三十三所です。今でも多くの方が巡礼され、この後、各地で観音札所巡りの信仰が徐々に広がったとされています。

【猿島阪東観音霊場の由来】
 多くの人が観音さまと縁を結んで幸せになれるようにとの願いから、今からちょうど300年前、享保10年(1725年、乙巳歳 [きのとみどし])に、萬蔵院52代住職で ある雄弁上人[おうべんしょうにん 1658-1729]によって開かれました。以来、遠方の霊場に参詣できない方々のために、この北総の地に三十三カ所の霊場を設け、十二年に一度、巳年ごとに開帳されます。観音開帳の期間中は、普段閉じられている観音様のお堂を開け、そこに参拝して観音様と縁を結んでいただき、その功徳を広く伝えます。

【雄弁上人について】
西暦1658年に栃木県(下野(しもつけの)国(くに))で生まれ、14歳で仏門に入り、各地で修行を積み29歳のときから20年間、京都に留学し帰郷して万蔵院の住職となりました。そして自己の修練と衆生済度のため七つの願いを立て、その四つ目がこの観音霊場の開設でした。
上人はこの他の願いすべてがかなった後、71歳で自らの終焉(しゅうえん)を悟られ、旧猿島町の円(えん)明院(みょういん)に石室を築き入定(にゅうじょう)されています。言い伝えでは、入室から7日間、鐘の音とともに念仏をお唱えする声が聞こえ、その後、音は途絶えたとされています。

【写真】雄弁上人の自刻像と位牌あり、掲載を検討

【巡拝のご案内】
各札所の御開帳日時:令和7年3月17日~4月17日
           午前8時30分~午後5時

納経帳の扱い…納経帳に御朱印をご希望される方には以下の料金を頂戴しています。
◎墨書と朱印 500円:納経帖、掛軸、白衣、笈摺(おいずり)
◎朱印のみ  300円:納経帖、掛軸、白衣、笈摺(おいずり)、重印

【納経帳について】
「ご納経」とは本来、文字通りお経を自分で書写して、寺院にお納めすること。そしてその印として御朱印を頂きます。
 かつて猿島阪東観音開帳の霊場巡りは、菅笠に白のおいずるを羽織り輪袈裟を掛けた巡礼姿で三十三所のご詠歌を唱えながら各霊場を巡拝していました。各札所においては、写経や巡礼札を納め、その印として納経帳に寺印の押印を授かっていました。ただし、近年ではこのことが簡略化されて、お経を納めなくても参詣の証として「ご朱印を頂くことが多いようです。
阪東三十三観音のご宝印を全部頂くと、大きな功徳があるといわれておりますが、少なくともお堂で御本尊さまにお参りしてから、ご印を頂くようにしましょう。また寺院の中の観音堂であれば、そちらのお寺の本堂にもお参りしましょう。
• 札所巡りする際は、各札所の開所時間内(8時半~17時)にお越しください。
• 納経帳には、必ずお名前をご記入ください。